つまりDiaryです

2010/05/14

5/14 fri

遊んでくれる大人は子供にとって貴重だ。

 遊びはやはりお互いが楽しくないと、中長期的には成立しない。「僕も楽しい、君も楽しい」がないと、まわらない。子供は遊び、という行為を通じて相互理解、とまではいかないが、向き合っている、という状態を経験する。向き合ってくれない大人が普通だ。それぞれの人間にそれぞれの事情があって、それを理解する過程、、どうやら俺の思い通りにはいかないようだ、という譲歩が大人へのステップか。それに駄駄をこねるのが子供の常。勿論、遊ばなくても大人と子供の意思疎通は可能、向き合うことも勿論可能だが、遊びから広げていく方が分かりやすい。
 とにかく形はどうあれ、駄駄をこねる子には、その子の世界に突っ込まなくては、関係が開けてこない。柔弱謙下、虎には虎の接し方、馬鹿な振る舞いに仁義や道徳を説いても念仏。

 大道廃れて仁義あり、仁義や道徳が声高に叫ばれるのは道が廃れているから。しかし、仁義や道徳を教育するにはある程度大道が廃れないと明確化しない。無菌室ではいかん、ということ。環境刺激を少なくし、害のあるものは寄せ付けない、、理解できるが、真っさらにすることは不可能だし、必要もない。指針を明確に示してあげる存在があれば十分。
 限定的な閉鎖環境で最適であることは、耐性の強さに繋がらない。柔軟に変化、対応させていく中で、重要な変わらない部分が研磨されるように成長していってくれれば、と思う。

夕飯をhsgw氏と。9周年、ということで、デート。9年前は15だった。うわー
色々と至らぬワタクシですが、これからもよろしくお願いします。

音楽聴けてない。ギター弾けてない。溜まる溜まる。うおー

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